舞鶴の赤れんが建造物

舞鶴市内には今なお多数の赤れんがによる建造物が現存しています。有名無名、規模の大小を問わずに舞鶴市内のすべてのれんが造りを数え上げると、ひとつの市域(単一行政区)にあるれんが造遺構の数では当舞鶴は日本一の多さを誇っているのかもしれません。そして用途も多岐にわたっています。倉庫、工場、工場内の事務所、窯と煙突、神社の井戸口館、トンネル、鉄橋の橋脚、砲台跡、門、水道施設、歩道の舗装(ペイブメント)と本当にたくさんあります。このほかには鉄道のプラットホームとランプ小屋がまず間違いなく赤れんがを積んでつくられていたものと思われますが、今はもうその姿は見えません。

舞鶴のれんが建造物の最大の使用目的は海軍関係の諸施設でした。軍の倉庫、軍需工場、工廠内の事務所、砲台、軍部の門扉、軍用の貯水池や配水池などです。直接軍部が使用するもの以外では、鉄道関連の施設が占める割合が大でした。トンネルや橋脚等です。鉄道に大量のれんがが使われたというのは全国的なことでした。けれども舞鶴の赤れんがで興味深いのは、それ以外の珍しい使われ方を目にすることができる点にあります。すでに紹介しましたホフマン窯という生産施設を別にしても、そのれんが工場近くの神社に赤れんがで積み上げられた井戸口館があったり、仏教寺院の境内にれんがを敷き詰めた参道が設けられていたりするのを目の当りにすると不思議な印象を受けさえします。これらのミスマッチ的な所作の誘因は、やはり赤れんがのまち舞鶴という環境が大きな背景として働いた点にあるといえましょう。舞鶴がかなり色濃いれんがのまちであったことを理解いただけると思います。


JR東舞鶴駅から海(北側)の方角へ歩いてみましょう。舞鶴東港に面した海岸線の市役所周辺である北吸地区には当赤れんが博物館や、平成6年に開設される市政記念館など全部で12棟ものれんが造倉庫が建ち並んでいます。そして同じく東港を北西方向から囲むような形で位置する、現在の日立造船株式会社舞鶴工場の中には更に24棟もの赤れんが建築が林立しているのです。

その中でも、民間の倉庫会社が所有している3棟のれんが倉庫群の地域は、個性的な空間を醸し出しています。これは平行する2棟の隣棟空間をふさぐようにして3棟目が前2棟に直交して配置されているものです。このユニークな場所でジャズのコンサートが開かれています。この一帯は大半が1902年(明治35)竣工のれんが造で、ただ1棟だけ直交している倉庫のみが1918年(大正7)の竣工です。

市役所に接する赤れんが倉庫群のすぐ西隣には、別のれんが倉庫4棟があります。いずれも棟を東西方向に配した南向きの倉庫ばかりですが、その内の3棟は横並び1列に建ち、もう1棟だけが1列南側にあります。といいますのも、北側の3棟が先に建てられ、南側1棟は後の建築のためです。3棟は1902年(明治35)の竣工で、同じ年につくられただけでなく、デザインもまったく同じです。この3棟の倉庫は、舞鶴の三っ子赤れんがと呼んで良いと思います。そして舞鶴にはこれと同様、同一意匠同時建築という双子・三っ子のれんが倉庫が他にもいくつかありそうです。それにしても興味深いのは、さきほどの北列3棟の方が、南の1棟よりもデザイン的にはより丹念に仕上げられている点です。南側1棟は1919年(大正8)竣工と新しいため、様式的には現代に近くスッキリしたシンプルな造形だからです。同じものを三つもつくる時にはより手間のかかる仕事をしておきながら、その次の1棟だけを積むのに簡便な仕方を採用するというのには少なからず微笑ましいものを感じます。


さらに国道27号線を西進すると、国道ぞいに3棟の骨太な倉庫が姿を見せます。いずれも海上自衛隊倉庫として現在も使用されている赤れんが建物です。東から1901年(明治34)、中央棟も同年、西棟が1921年(大正10)の順に建てられました。東側2棟の竣工年が、前述の三つ子と1年しか違わないこともあって、外観上の特殊は非常に酷似しています。両方の写真を見せられても、はたしてどちらのグループの赤れんが倉庫なのかと迷うほどです。周囲の状況の違いで最終的な判断を下すのが一番よい方法なのです。ところが今申し上げました話には重要な内容が含まれています。ほとんど同一の外観をもつ建築であっても、それが立地する環境・ロケーションによって、建築の育てられ方・呼吸の仕方、やがては街並みの中で存在のありようが全く違ってきてしまうということなのです。

大通りに面している建築はそれなりに、人々がいつも集まって使ってもらっている建築はなおさら、あたりまえのように観光ポスターに写され続けている建築は一層カメラ慣れしてくる、などというように建築がおかれている状況の違いはその建築の姿勢に大きな影響を与えることになります。海上自衛隊倉庫3棟はフェンスによって直接人々の手で触れることはできないものの、国道に堂々とした姿を現しているおかげで舞鶴の顔ともいえましょう。

さて、日立造船株式会社舞鶴工場の敷地内には、にわかに信じられないほど多数のれんが造建築があります。その数の多さに、かなり決心をしないと全部のれんが造をまとめて見学することは難しいかも知れません。合計24棟です。しかも大半が相当に大規模な工場建築なのですから。建設された年代は1902年(明治35)から1923年(大正12)にかけてです。1902年といえば造船廠発足の翌年ですから、おそらく発足と同時に計画着工された最初期の施設のひとつだと考えられます。造船廠1903年(明治36)に舞鶴海軍工廠と改称した組織で、正に現在の日立造船株式会社舞鶴工場の施設の前身です。

また日立造船内で一番新しい赤れんが造工場は、敷地内東端に位置する鉄骨れんが造で実は、市内で最大の規模を誇る棟です。その竣工年1923年(大正12)は関東大震災が発生した年にあたります。この震災を契機として日本中で本格的なれんが造建築の新築が行われなくなったといわれています。したがって日立造船のこの大工場は、全国的に見て最後のれんが造大建築だと評価することができましょう。


日立造船舞鶴工場の赤れんが建築で注目に値するのは、鉄骨れんが造が多い点です。全部で18党もあります。24棟の内、ちょうど4分の3が鉄骨れんが造というのは、明かに当時の海軍技術の先進性のあらわれです。しかも、わが国では1887年(明治20)以降ほとんど実践されることのなかったフランス積を採用しているのです。フランス積は、その上、構造的にはイギリス積に比べると欠陥が生じやすいのです。ですから明治後半には建築家もれんが積職人も、フランス積に関しては知識だけは持っていましたが、実務としては専らイギリス積ばかりを実践していたのです。

ところが積み上げられたれんがの壁を見比べると、フランス積はイギリス積よりも変化に富み華やか意匠を見せます。建築の強度は鉄骨に任せておいて、れんがの壁で洒落たデザインをするという、海軍の科学性と粋な一面が、日立造船の鉄骨れんが造フランス積には窺い知れると思います。この当時の海軍の方針は全国的なものだったようで、同じく明治30年代に整備された横須賀海軍工廠でも鉄骨れんが造大規模な工事が建設されました。

次は上水道の施設です。かつての海軍鎮守府跡地である海上自衛隊舞鶴地方総監部の東側に位置する小高い丘に現在は市民プールがあります。この場所は元来、水に緑のあるところで、1901年(明治34)北吸浄水場の配水池がつくられ、この時から給水を始めました。水源の方は、この前年に与保呂(北吸の南東に位置する養老山の麓)に桂貯水池がつくられています。貯水池の施設には石組に一部れんがを併用した遺構があり、北吸に配水場は完全なれんが造で建設されました。

北吸隧道(トンネル)は、市役所から南東方向へ400m余の位置にあります。かつての鉄道道路でしたが、今は鉄軌道が廃止され、自転車・歩行者専用道路として整備されています。この隧道は1904年(明治37)に完成しました。

以上が市役所の周辺に現存し、多くの人々に触れることのできる代表的な舞鶴の赤れんがです。これらのほかに、れんが窯、神社、砲台、寺院、鉄道トンネル、商店の倉庫、消防団の倉庫、学校の門、煙突、橋などが30物件ほどあります。地域的にも舞鶴市内全体に広がりを見せています。        

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