登り窯では窯内に熱を効率よく配し、薪材を燃料とするわりには高温にすることができました。けれども北海道の両登り以外は、一窯で焼けるれんがの量には限りがあると言わなければなりません。これは窯の規模の大小の違いだけではなく、システムに関わる問題でした。
そこで登場するのがホフマン窯(ホフマン式輪窯あるいは輪環窯。リング・キルン)です。登り窯のように一度点火したら、火が順次隣の房に移っていきます。登り窯を平地でもっと長くし、部分的に曲げて最後尾の房を最初の房と連結した形のものです。このようにすると、一周して来た火を消さずに際限なく焚き続けることが出来るという訳です。
この発想はドイツ人によるものでした。1854年(安政1)1月21日にフルマンが特許を得た窯に、フリードリヒ・ホフマンが改良を加えて1858年(安政5)5月27日に特許を得たといわれます。ホスマンが実際にこの窯を考案し始めるのは1857年からであったようです。ホフマンはその後、ドイツ業界の有力な人物になっていきました。
わが国へは銀座れんが街建設に際して、イギリス人ウォートルスの手で導入されたのが最初とされます。1951年(昭和26)5月1日現在、ホフマン窯は日本全国的にちょうど50基も存在していました。道府県別に多い順に挙げると、北海道11、兵庫8、広島8、埼玉4、滋賀3、大阪3、京都2、香川2、福岡2、そして岩手、栃木、神奈川、富山、和歌山、岡山、愛媛が各1基の合計50基です。このように数多く存在したホフマン窯も、今日ではわずか2基が残されるだけとなりました。しかも稼動しているものは1基もありません。実際に稼動しているホフマン窯としては、韓国が最も近くにあたります。
ここでホフマン窯稼動法(窯の使い方)を紹介しましょう。最初の点火に際しては窯の中に、焚き口の付いた仕切壁をれんがで仮設します。この仕切壁は火が遠くへ移動してしまった後には撤去してしまいます。焚き口から火の回っていく側に、薪材と共に乾燥し終えたれんがの素地を積み上げます。素地の出し入れに使う戸口(出入口)も素地を詰め終えたら、焼成済みのれんがと泥を積み上げて窯をふさぎます。素地を積み込む際、各房(窯内の室)ごとに新聞紙を貼りあわせた大きな紙で空気の流れを仕切ります。
稼動に際しては各房の足元から煙突に通じている小煙道に、それぞれ取りつけられた煙道(煙突へ通じる煙の道)を開閉するたねのダンパー(開閉口)を上げ下げして排煙を制御します。燃焼させる房の先の1房目と2房目のダンパーを開き、他のダンパーはすべて閉じておきます。そして登り窯の焚き始めと同様に、焚き口から薪をくべ続けて火力を増します。
この作業を1昼夜ないし2昼夜続け、石炭を投入しても点火する状態の温度に高めたら薪と粉炭(微粉炭。採炭時に欠け落ちた安価な屑)を併用します。粉炭はホフマン窯の天井に約1m間隔で開けられた投炭口から約15分間隔で投入されます。これ以後は燃料を粉炭だけに切り換え、投炭する直下のれんがを焼き上げます。れんがは焼成によって焼き締まるため、積み上げたれんがの高さが全体として下がります。
この変化を「何寸下がり」などと測定して焼き上がったことを知るのです。このときの為に、素地を積み終わったら各投炭口ごとに窯の天井かられんが素地上端までの下がりを測っておき、その数値を該当するチャン(投炭口の鋳鉄製のふた)に白墨で書いておきます。焼き上がったのち徐々に、粉炭を落とす投炭口を次の隣の口に移していけば、焼成帯(約房分)を自然に前進させることになります。燃焼帯の進行に伴ってダンパーの開閉もひとつずつ移動させていきます。
れんがの素地を窯内に積み上げる時、仕切りとして貼っておいた新聞紙は燃えてしまうので、燃焼帯は支障なく進むことができます。このようにして大きな窯を火が一周している幾日かの間に、点火のために仮設した焚き口を取り去り、各房ごとに仕切紙を貼りながら新たな素地を詰めておくのです。
ホフマン窯は一度火を付けたら夜間でも投炭を続けなければなりません。このため職員は3交代制で就業しました。また窯内への素地の積み上げ、焼き上がったれんがの運び出し等、大きな労働力を必要とするシステムです。同じ量のれんがを焼成するのに要する粉炭の燃料費は重油の燃費よりも安価ですが、労働条件や賃金などの点でホフマン窯は問題が多くありました。この理由から今日の日本ではホフマン窯は、自動化された台車が窯の中を移動していく、重油を燃料としたトンネル窯にとって代られたのです。
ホフマン窯による焼成は、石炭を燃料とするために、薪による焼成よりも高温を得られます。ホフマン窯の明確な焼成温度がわかっている例としては山陽煉瓦の1050℃、東亜煉瓦の1000℃〜1080℃です。(いずれも広島県)また日本煉瓦製造(埼玉県)では1090℃でした。これらの温度は今日・トンネル窯で生産が続けられている温度と変わりがありません。ですからホフマン窯で焼成されたれんがは現代の赤れんがと同じ、赤色から赤紫の色合いをしています。
薪材の登り窯で焼かれたれんがはみかん色、粉炭のホフマン窯で焼かれたれんがは赤色なのです。この色調の違いもホフマン窯導入以後の国産れんがであるのか、それともそれ以前の可能性があるのかと言うひとつの年代判定の指標となります。 |